2007/02/28

Miyagawa教授のTeigenにみるSenryaku(MTS)

品質工学会誌の最新号(2007年2月号)の「品質工学の歴史化(6)」を読んで初めて知ったことがある。MTシステム(初期の逆行列を使うもの )は数理的には1950年代にすでにあった「多変量管理図として具現化される多変量外れ値検出」と同じだということである(東京工業大学教授 ・宮川雅巳氏がJSQCニューズ2004年3月号で「MTSの普及に学ぶこと」で言及したことが紹介されている)。
http://www.jsqc.org/ja/kankoubutsu/news/articles/2004-03/index.html#c2

 品質工学会誌の上記論説では、数理的には同じかもしれないが、MTS(現MTシステム)には「パターン認識」という概念についての目的の違 いを指摘しているが、下名にとっては、宮川教授の論説のほうに興味が行った。それは多変量管理図ではなく、本当に応用統計学の教授が言い たかったことが言外ににじみ出ている部分である。(「 」は引用)

「品質工学信奉者の間で、MTSが急速に広まっている。(中略)MTSの手続きは、1950年代に既に存在した多変量管理図として具現化され る多変量外れ値検出と基本的に等価である。このような古典的手法がなぜ今日これほど使われるのであろうか。(中略) 理由のひとつは、言うまでもなく提唱者田口氏のカリスマ性とネーミングの良さにある。二番目は宣教師の存在である。教祖の真意を汲み、 見事なまでに教祖の言を伝道する。三番目には、既成の統計ソフトを使わずとも手軽にマハラノビス距離を計算できるようになった環境がある 。 」

 これは品質工学会の中からは決して出てこない意見であろう。応用統計学のような数理が整っていないQEに対しての皮肉を込めてか、それで も大きな成果が出ているQEへの羨望の裏返しなのか、「信奉者」「教祖」「カリスマ」などの言葉が並ぶ。が、以上は宮川教授の肩慣らしで、 本領の撃はここからである。

「私は次の点が本質的だと考えている。実は、MTSには古典的多変量外れ値検出にプラスアルファした部分がある。それは、(中略)マハラ ノビス距離を構成する多変量の合理性を評価する作業である。項目選択と呼ばれる変数選択もこれに基づいている。このような作業は少なくと も管理図にはなかった。」

 と、MTSに新しく加えられた部分を一応は評価して、持ち上げている。しかし、

「もちろん、統計学者はこの作業を外れ値検出における常識的作業だと主張するかもしれない。」

 と、ここでまた応用統計学者としての本心が見え隠れする。MTシステムに付加された部分においては、それは当たり前なのだと。いまさらそん な常識を持ち出してネーミングするなよ、と。そして一度落としておいて、また以下のように一旦持ち上げる。

「しかし、それを手順として明示するか否かはユーザーにとっては大違いなのである。」

 優れたユーザビリティとその伝道こそがMTSの本質なのだと、さもこれがこの論説で言いたいことだといわんばかりにこれまた表面上持ち上 げるのであるが、最後にきつい一撃を加えている。

「学術的にはたいしたことがないと思われるような、ちょっとしたプラスアルファが、手法の使い勝手を著しく高める。私はこの典型的な例を MTSに見出したのである。」

  ”学術的にはたいしたことがない”である。これはかなり嫌味である。ここが本心の部分で一番言いたかった部分に見えて仕方がない。MTシステムの真髄は当然ユーザビリティーというところにあるのではなくて(ましてやカリスマ性や伝道でもなく)、品質工学会誌のほうの論説に記載のあるとおりである。

 宮川教授の著書(「品質を獲得する技術」など:名著である)を見る限り、QEをあれほど深く理解され、また賛 同していらしゃるのに、品質管理向けの論説となるとそちらにウケを狙ってか、QEに対して少し意地が悪いな、という(あくまでの下名が感じた)印象である。

 とはいえ、多変量管理図に興味を持ち、を調べていくうちに「インテリジェンス管理図活用のすすめ」、はたまた”この本を買った人はこん な本も買っています”と「グラフィカルモデリング」(宮川教授の著書)などの本に遭遇してしまい、いずれも買う決心をする羽目になった。 これこそ、宮川教授の術中ではないか。宮川教授こそ戦略家である。
(もちろん新しい知識への出会いに感謝しているのである)

2007/02/18

村上陽一郎「近代科学を超えて」とQE誕生予言?

村上陽一郎「近代科学を超えて」を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/近代科学を超えて-村上-陽一郎/dp/4061587641/sr=8-1/qid=1171799999/ref=pd_bbs_sr_1/249-0825545-2324336?ie=UTF8&s=books
「トーマス・クーンのパラダイム論の成果の上に立って、(中略)科学の進むべき新しい道を開いた」とある(裏表紙紹介より)。1986初版の文庫版であるが、原文はすでに1974年にあったらしい。30年以上前の書ということになるが、今読んでも全く古さを感じないし、むしろ今だからこそ読む価値が再認識される科学論書である。

 本BlogはQEのものであるので、興味を引いた部分を引用して簡単にQEとの関係について何がしかのコメントを加えてみる。(『 』は本文からの引用)

 『要は「人類のために」という科学の目的を、全体的現象の把握のなかに生かすための方法論を知ることなのであって、・・・(中略)・・・科学的であることと、分析的であることを等置と考えるドグマから脱却し、科学に対して、より柔軟な論理構造の枠組みを許すことにある。』(p.116)

 QEでは最初から社会的損失の最小化、人類の自由の総和の拡大を言っており、そのための方法論を具体的に提示している。執筆当時、著者は上記を打破できるのは、さしあたって「システム論」であるが、成果はまだこれからだ、としている。

 『システムの方法論を、上位概念もしくは上位法則によって下位概念を説明する、と定義してみてはどうだろうか。(中略)あるいは、あえて言えば総合的思考(分析的思考に対する対語※下名注)に当たると思われる。そうした思考を取るとすれば、当然、目的論的説明、機能的説明が、その思考過程のなかであるところを得るはずである。』(p.130)

 前後の文脈がないと多少分かりにくいかもしれないが、「目的論的説明、機能的説明」とあるように、分析論的な思考の対立軸として、目的的に、機能的に対象を説明するということである。QEの目的機能の定義および、その機能を達成するための帰納的思考方法がまさにそれに当たっており、従来の科学的思考(なぜそうなるのか、どう振舞っているのかをより下位の概念の分析で説明しようとする)に変わる軸を、Dr.タグチと同時期(30数年前といえばそのころであろう)に見据えており興味深い。

 『われわれは、医学がもう一度「生きる」ことの間に受ける「苦しみ」の除去という根本的前提に立ち戻ることを求めるのが、(中略)高分子的、細胞的なレヴェルでの異常、正常の分析にとどまらず、(中略)一個の人間の「苦しみ」をより大きなシステムとしての社会、民族、人類という観点から把握する方法論を確立することを望むものである』(p.131)

 高分子的、細胞的なレヴェルでの異常、正常の分析を「下位概念の分析での説明」だとすれば、一方では新しい枠組みとして(著者がシステム論的という)人類レベルでの損失の減少や自由の拡大を念頭において、ということであろう。なにも医学に限った話ではなく、あらゆる製品は原理やノイズの科学的分析だけでなく、機能や目的、とりわけ品質の定義である「出荷後、製品が社会に与える損失」を考える必要があると考えれば、根は同じであると思えてならない。QEではこの考え方に基づいてコストを工学に取り込んだところが、パラダイムシフトなのだといってよいだろう。

 これに対して、予測される反論に対しても著者は用意周到に以下のように述べている。

『そうした方法は、分析的方法に比較して、正確さにおいて欠けることは、当然予測されるところである。しかし、現象はときにむしろ曖昧なものである。(中略)曖昧さを曖昧さとして正当に評価できる方法は、科学のなかで決して否定されるべきものではない。(中略)われわれの科学のなかでも一種お袋小路に追い詰められていることはたしかであって、それを建設的に切り拓いて行く為の提案は、否定されるべきではないだろう。』(p.131-132)

 「曖昧さを曖昧さとして正当に評価できる方法」・・・これがSN比でなくていったい何であろうか。多次元空間のわけの分からない振る舞いを、(多少の情報損失は覚悟の上で)目的的に、すなわち理想機能の充足の程度として定量評価できるほぼ唯一といってよい尺度である。(ついでに言えば、その尺度があるだけでもありがたいが、評価尺度の加法性にまで気を配り、加法性を成立させるためのデータの取り方まで具体的に言及している学問は、QEは唯一無二である)
 また、前記後半の文章は、「数学的に証明できないSN比など信用できない」などの心無い批判を受けているQE推進者諸氏には心強いメッセージであろう。分かる人には分かるのである。

 最終節の「新しいパラダイムを求めて」のくだりは文字通り、圧巻である。ぜひ本書を手にとって前文をごらん頂きたい。一部だけであるが以下紹介する。

『近代科学の表看板では(中略)、三つ以上の要素の間のそれ(因果的関係※下名注)を同時に取り扱う手段を持たない(中略)・・・「共時的、同時的」な秩序に注目すべきである。(中略)われわれはそうした種類の秩序を正確に表現できるような数学的な道具をまだ手にいれていない。』(p.213)

 著者はこのような「共時的、同時的」な形態として、図形や和音などを例示しており、その形態のことを「パターン(独語ではゲシュタルトに対応)」と言っている。このような同時に起こるような自称の総合評価の数学的道具が必要であるが、今は(1974年当時)ないと言っているのである。このBlogの読者ならピンとくるであろうが、これに対する解はMT法が多くの部分を提示しつつあるのではないだろうか。

 『地球規模での自然制御の対象は、(中略)国家、民族、文化圏などの一切を包含した文字通り相対としての「自然」である。ここに要求される「文化」こそ、ある意味で自然をも包み込み「文化」-これまでの「文化」が「自然」内的存在であったのに反して-言い換えれば「超文化」とでも言うべきものであろう。(中略)政治・思想・倫理など人間に関するあらゆる側面を、一つの普遍的合意へと導いていくような種類のものでなければならない。そのような「技術」を手に入れることは・・・(後略)』 (p.222-223)

 本書の結論的な部分で、超文化へ導くものは、思想や倫理を普遍的合意に導くような種類の「技術」である、という言葉を使っている。2007年現在でのつたない下名の後知恵にすぎないが、この言葉が当時におけるQEの誕生予言に聞こえてならないのである。

 同筆者の「新しい科学論」(ブルーバックス)
http://www.amazon.co.jp/新しい科学論―事実は理論をたおせるか-村上-陽一郎/dp/406117973X/sr=1-1/qid=1171800062/ref=sr_1_1/249-0825545-2324336?ie=UTF8&s=books
も合わせて読んでいただければ、科学史や科学論に興味をもっていただけるものと思い、ご紹介したしだいである。

2007/02/05

損失関数の難しさと世代間闘争

 許容差設計を行うにせよ、オンライン品質工学を行うにせよ、拠り所となるのはそれらの計算方法や数理ではなく、まず損失関数の概念が受け入れられるかどうかであろう。損失関数の概念と言ったが、その計算方法のことではない。損失関数が導かれるまでの考え方、もっといえば社会に与える損失という考え方、哲学である。
 ではなぜ、損失関数があまり活用されないのであろうか。まず、機能限界Δ0(LD50)はともかく、A0の値が不明であることからあまり使用されない、使用しにくいという論があるが、それは誤解であると思う。上記のように、確かな精度でその値を決めるのは確かに難しいが、A0の値の精度が倍半分違っても、オンラインQEの計算による許容差や診断間隔はそれほど変わらないのである(まるめの範囲内であることが多い)。
 もう1つは、A0として社会の損失をすべて見込むのは過剰であるという考えによって、損失関数が使われにくい場合である。売価が数100円の安い部品が人命に関わることがあると、安全率は膨大になり、計画コストで設計できなくなる。これについては、ひとまず、安全設計(製品が壊れても人命や重要な財産は守られる仕組み)を併用することを勧めているので、損失関数を用いない直接的な問題ではないと考える。

 ここからが本論であるが、誤解を恐れずに言えば(いや、誰もが薄々気が付いているので地雷を踏むこと承知で言えば)、損失関数が経営者に使われない本当の理由は以下のようであると考える。
 企業の内部から損失関数を見た場合には、企業内の検査によってNGとなった場合の損失Aは、現在発生する損失である。すなわち、工程内の廃却コスト、ロスコストとなって、「現在」の企業(経営者、株主)にとってダメージとなり直撃する。
 なので善意には、政治的に妥当な理由(過剰品質やVA/VEという言葉が使用される)によって、あるいは悪意には故意的に、できるだけ許容差はゆるくして、工程内でNGとなるロスコスト(賞味期限切れのケーキや、電車の到着時刻の遅れ等ですね)は減らしたいと考えるのである(これには異論があろうが、程度問題である。損失関数の立場から見れば善意であっても大方A0は過小に見積もられている)。
 一方、機能限界外損失A0は出荷後将来にわたって発生する社会的な損失である。ここでの論点は「社会的損失」のほうではなく、「将来」のほうである。A0は将来の企業(経営者、株主)にとっての損失であるから、現在の企業(経営者、株主)にとっては直接の損失とはならない(普通は長くても数年で経営者は変わってしまう。ここでも異論があるだろうがこれも程度問題でると考える)。
 ここに損失関数の理念の落とし穴がある。つまり、現在の1円と将来の1円を同じものとして(これは金利や貨幣価値の意味もあるが、もっと広くだれにとって得する1円かという意味で)バランスを考え、許容差Δを決めるという操作に、現在の経営者は魅力を感じないのではないか(と、訊いてYesという経営者はそうはいないだろうが。経営者は品質第一、お客様第一を謳っているのだから、すばらしい、あるいは当たり前の理念だというであろう)。
 現在のB/S、P/L、キャッシュフローでシビアに評価される経営者にとっては現在の1円は将来の1円よりずっと重いのである。明日の金策に奔走する経営者に3年後のクレームの話を説いても仕方がない、というのは大げさな表現ではあるまい。経営者がそうであるから、中間管理職や技術担当への評価もしかりで、未然防止に対しては評価が低い。その点では現場から見ると、損失関数の考え方はナイーブに見えてもしかたがない。
 社会的に見ればこのように考える会社はつぶれたほうが世の中のためなのかもしれないが(ドラッカーもそう言っていたが)、当事者や従業員、その家族はそうは考えられまい。大方は自分の生活や立場を守ることに汲々としているのである。
 経営者が長い時間軸を含めた社会損失の最小化を行わないと損失関数による意思決定は不可能なのである(これは究極の社会主義であろう、従って自由経済、資本主義とは短期では相反する)。しかしもう少し現実的な方法として、転属・引退した経営者も関わった製品に対しては将来の損失に対する責任をかぶるくらいの対応があってもよいのかもしれない。
 これらの議論は国の財政問題、環境問題、エネルギー問題などの先送りすべて当てはまる。また、戦争の火種はすべて局所最適からくる問題であろう。政府(=これは国民の代表であり、主権であるということになっている)が将来にわたっての損失まで含めた意思決定ができるくらいなら、現在のような状況にはなっていまい。
 損失関数是非の問題は、世代間闘争の問題でもある。筆者はタグチ哲学はすばらしいと思う一人であるが、局所最適は不完全な人間の性なのではないだろうか。これは人類の歴史が物語っている。人間は何千年でどれくらい進歩したといえるだろうか。

株式会社ジェダイト(JADEITE:JApan Data Engineering InstituTE)