2007/05/21

T法の本質を考える(2)

 T法の本質を考えるのであれば数理の違いだけでなく、というよりむしろ、その目的の違いに踏み込まなければなるまい。

 前節で述べたように、T法では重回帰分析、マハラノビス距離、主成分分析などのように相関行列(の逆行列)を用いた、偏相関の考え方が入っていない--偏相関が入っていないからダメというのではなく、行列Rが正則でなく、統計的な方法で計算できない場合にT法を用いる--ので、各項目(説明変数)が予測値に対してどのように効いているかは、擬似相関も含めた表面上の解釈としてしか知ることができない。

 予測したい対象がどのようなモデルで説明できるのか、という科学的な目的であれば、確かに上記の多変量解析手法で用いる偏相関を考慮した方法が必要である。しかし、T法の場合--もっと広くMT法の場合--の目的は、予測システムの設計およびその評価である。従って、各説明変数の予測値への振る舞いは、擬似相関も含めた、表面上の振る舞いが単位空間(正常状態)と異なっているかどうかが分かればよいのである。擬似相関が単位空間と信号空間で差があり、それが普遍的なののであれば、その挙動もそのまま使ってしまおうということで、これを田口博士は「パターン」と言っているのであろう。

 従って、多変量解析による予測の手法と、T法とはまず目的を異にしており、その上でには項目が多数であったり、相関係数行列が正則でない場合、項目のσ=0の場合にも「予測システムの設計と評価」に対応できるようにした手法である。よって前節でも述べたが、T法では項目が制約条件が少なく大幅に増やせるため、一概に予測精度が低いとは言えない。最終的には予測のSN比の評価であり、最適予測システム設計のための一手段--しかもかなり制約条件のつかない汎用的な手段--と考えるのが妥当であろう。

2007/05/14

T法の本質を考える

 時系列データ(為替レート)の予測の連載の途中になるが、その予測の参考にもなると思われるので、今回はT法(単位空間が真ん中のもの、以下同)のことをつれづれと考えたい。

 T法の考えかたは、各項目i(i=1~k)の値xiと真値の回帰比例定数βiからの単回帰で推定される個別の推定値xi/βiを求めて、それら項目の値と真値の相関を表す動特性のSN比ηiで加重平均したもので総合評価の推定値を求めるというものである。
 重み付けを行っているとはいえ、単回帰からの推定値の和(平均)がベースとなっているので、MT法(逆行列を用いるもの、以下同)や重回帰分析のように、項目間の相関を考慮しているわけではない。ここでいうところの項目間の相関の考慮とは、項目の擬似相関を排除するべく、相関係数行列の逆行列を用いて偏回帰係数を算出し、それをベースに真値の推定を行うということである。

 擬似相関についての例を挙げる。たとえば、項目に身長と体重、真値にBMI(肥満度の指標)をとった場合に、BMIの定義、BMI=体重(kg)÷身長(m)^2から考えると、BMIは身長に対して負の相関、体重に対して正の相関があるはずである。これは正確に言えば、体重を固定した場合の身長に対しては負の偏相関、身長を固定した場合の体重に対しては正の偏相関があるということである。つまり、下記のようなデータ

身長(m)   体重(kg)   BMI
1.50     52       23.1
1.60     45       17.6
1.55     57       23.7
1.65     60       22.0
1.75     72       23.5
1.70     80       27.7
1.80     90       27.8
1.85     88       25.7

に対して重回帰分析を行うと、下記のように身長に対する係数はマイナスになり、体重に対する係数はプラスになるということである(BMIの定義と一致する)。

項目    係数
切片    48.85
身長    -29.44
体重    0.3582

 MT法についても相関係数の逆行列から距離を求めているので、偏相関とは少し異なるが、数理は似通っている。

 さて、T法の場合で、比例定数βiの符号を調べるために、上記のデータを使って、各項目とBMIの単回帰の相関係数を計算してみる。

身長 vs. BMI   r=+0.545
体重 vs. BMI   r=+0.865

 この場合、困ったことが起きる。すなわち単回帰の、身長について、正の相関が現れてしまう(重回帰分析の係数および、BMIの定義からは負の相関となる)。これは、項目である身長と体重の相関関係を無視したことによって生じる、身長とBMIの擬似相関である。
 ちなみに、体重を層別して(上記のデータで体重の小さい順にたとえば2,3,3データの組を作って)、その中で身長とBMIの傾向を見るとこれは負の相関になっている。つまり、身長とBMIの単回帰においては、身長と体重の背後関係に引きずられて、実際の関係(偏相関)とは異なった結果になってしまうことを示している。







 最初に述べたとおり、T法では単回帰の相関係数の符号がβiの符号と同一であるので、上記のように相関の傾向が逆転する場合や、実際は大きい偏相関があるのに相関がなくなったしまう場合や、またその逆の場合もあり、当然のことながら推定の精度は悪化してしまう。

 このように見ると、T法は偏相関係数で推定するMT法や重回帰分析よりも推定精度は原理的に一歩劣るといわざるを得ない。T法はもともと、他のMTシステムや重回帰分析では扱えない非常に項目が多く計算に時間がかかる場合や、項目に多重共線性がある場合、項目のσ=0の場合の方法の提案である。従って、このあたりは、計算速度や多重共線性による精度低下と、項目間の相関を考慮しないことによる精度低下のトレードオフということになる(データの性質によって選びうる手法は限られると考えられるが)。
 田口博士いわく「最終的にはSN比の評価である」ということである。項目を多く--しかも多重共線性やσ=0を気にせずに、原理的には無尽蔵に--取ることで、推定の精度を上げようというのがT法の戦略なのであろう。

 このような戦略は、パラメータ設計で混合系直交表に多数の制御因子の主効果を割り付ける戦略と通じているように感じられる。すなわち、Box博士のいう列の汚染(交互作用の交絡)は気にせずに、多数の制御因子の主効果を求めるにはどうすればよいか、という問題に対する実践的な解決法の徹底である。
 T法も原理的には偏相関から推定する方法よりも推定の精度は落ちるが--項目が同じで、いずれの手法も選べる場合の話--、では項目が非常に多かったり、多重共線性、σ=0の場合にどうするか?という問題の解決として提案されたT法も、実践的な解決策の徹底と言えるであろう。

 MT法に話を戻すと、MDを求める数理は偏相関係数の利用であり、重回帰分析の数理と似通ったクラッシクな部分である(Mahalanobis博士の功績)。従って、MT法のオリジナリティーは、予測システムの精度をSN比で評価することと、直交表を用いて項目選択、診断を行うことである。なお、単位空間の概念はすでに1950年代に多変量管理図のところで示されていたとのことである(このことは、宮川雅巳博士の論説に詳しい:過去のblogも参照されたし)。 T法についてはその名称のとおり、戦略からSN比、直交表まで一貫した田口博士のオリジナルと言ってよいものになっている。


※筆者注:「重回帰分析はあてはめなので、推定の精度は悪い」と言われるが、それは既知データだけで推定式を作る場合であって、MT法と同じように、未知データを導入してSN比で評価、項目選択すれば、原因系と全く関係ない項目による説明力の向上の問題は解決されると考える。その場合、重回帰分析で作った式の推定精度は、MT法やT法と遜色がない場合も多いと考えられる(データの性質によるので、最後は田口博士の指摘するとおりSN比の評価である)。

※筆者注:本稿では単位空間の議論は省略している。またT法で使用するのは単相関係数ではないが、項目のβiの符号を簡単に(Excelの関数レベルで)知るために便宜上用いている。

※追記:マハラノビス距離では相関係数の逆行列を使用しているが、重回帰分析の偏回帰係数の算出とは目的も方法が違うようである。数理に詳しい方の助言をいただければ幸いである。


株式会社ジェダイト(JADEITE:JApan Data Engineering InstituTE)

2007/03/31

品質工学いろは

 「品質工学いろは」と言っても、品質工学入門ではない。品質工学の勘所をいろは歌風に考えてみた。できるだけ広い内容を取り入れて、ダブリやモレがないようにしたつもりだが、On_QEやS/Wデバッグまでは手が回らなかった。似た内容のものもあるので、「こっちのほうがいいよ」というのがあれば、是非ご提案いただきたい。ではどうぞ。


あ 安全率はコストで決めよ損失関数
い 一点だけの極値を最適化するな
う うまいノイズは評価効率化の要
え エネルギー評価は再現性のパスポート
お 大きく変化を際立たせるノイズの工夫

か 感度よりばらつき二段階設計
き 均一、多数の基準空間
く 繰り返し取る前にノイズを考えよ
け 計測技術は評価の基本
こ 交互作用に動じない主効果だけで設計せよ

さ 再現性せずは機能の見直しから
し システムの分割は信号の独立な機能別
す すべての原因を探すは時間の浪費
せ 制御因子が多い複雑なシステムを選択せよ
そ 相関行列、直交展開不要のシンプルT法

た 田口玄一日本の宝
ち 直交表、再現性チェックの強力ツール
つ 綱渡りの開発より上流でのロバスト設計
て 出来栄えはコスト問題、機能性は品質問題
と トップの関与が展開普及の絶対条件

な 長い試験より機能性評価
に 二元系、予備実験に外側ノイズ、MT法なら項目選択
ぬ 抜けのあるモデルでも設計できる安定性
ね 熱量と時間の問題は水準ずらし
の ノイズ調合できなければ外側直交表

は ばらつきは大きく積極的に負荷
ひ 火消しのうまさより未然防止を褒めよ
ふ フーリエ変換不要の微・積分特性
へ ベンチマークで寿命の推定可能
ほ 望大特性より望目特性、望目特性より動特性

ま マネージャは目的を、エンジニアは手段を
み 短い評価ならL18は多くない
む 無駄を減らして、新しい仕事を創造せよ
め メカニズムよりお客様の機能の追求
も 目標値をN0にするな標準SN比

や 山谷出たら、交互作用の注意信号
ゆ ユーザの欲しい機能を評価せよ
よ 横ずれノイズは累積で線形化

ら ラッキーな試作結果の後に量産でのやり直しあり
り 利得の一部はコスト低減に還元せよ
る 類似のQE事例に解決のヒントあり
れ レスポンス研究だけでは設計できぬ
ろ ロバストはノイズと交互作用への強さ

わ 分からないことを対策できる水準ばらつきノイズ

2007/02/28

Miyagawa教授のTeigenにみるSenryaku(MTS)

品質工学会誌の最新号(2007年2月号)の「品質工学の歴史化(6)」を読んで初めて知ったことがある。MTシステム(初期の逆行列を使うもの )は数理的には1950年代にすでにあった「多変量管理図として具現化される多変量外れ値検出」と同じだということである(東京工業大学教授 ・宮川雅巳氏がJSQCニューズ2004年3月号で「MTSの普及に学ぶこと」で言及したことが紹介されている)。
http://www.jsqc.org/ja/kankoubutsu/news/articles/2004-03/index.html#c2

 品質工学会誌の上記論説では、数理的には同じかもしれないが、MTS(現MTシステム)には「パターン認識」という概念についての目的の違 いを指摘しているが、下名にとっては、宮川教授の論説のほうに興味が行った。それは多変量管理図ではなく、本当に応用統計学の教授が言い たかったことが言外ににじみ出ている部分である。(「 」は引用)

「品質工学信奉者の間で、MTSが急速に広まっている。(中略)MTSの手続きは、1950年代に既に存在した多変量管理図として具現化され る多変量外れ値検出と基本的に等価である。このような古典的手法がなぜ今日これほど使われるのであろうか。(中略) 理由のひとつは、言うまでもなく提唱者田口氏のカリスマ性とネーミングの良さにある。二番目は宣教師の存在である。教祖の真意を汲み、 見事なまでに教祖の言を伝道する。三番目には、既成の統計ソフトを使わずとも手軽にマハラノビス距離を計算できるようになった環境がある 。 」

 これは品質工学会の中からは決して出てこない意見であろう。応用統計学のような数理が整っていないQEに対しての皮肉を込めてか、それで も大きな成果が出ているQEへの羨望の裏返しなのか、「信奉者」「教祖」「カリスマ」などの言葉が並ぶ。が、以上は宮川教授の肩慣らしで、 本領の撃はここからである。

「私は次の点が本質的だと考えている。実は、MTSには古典的多変量外れ値検出にプラスアルファした部分がある。それは、(中略)マハラ ノビス距離を構成する多変量の合理性を評価する作業である。項目選択と呼ばれる変数選択もこれに基づいている。このような作業は少なくと も管理図にはなかった。」

 と、MTSに新しく加えられた部分を一応は評価して、持ち上げている。しかし、

「もちろん、統計学者はこの作業を外れ値検出における常識的作業だと主張するかもしれない。」

 と、ここでまた応用統計学者としての本心が見え隠れする。MTシステムに付加された部分においては、それは当たり前なのだと。いまさらそん な常識を持ち出してネーミングするなよ、と。そして一度落としておいて、また以下のように一旦持ち上げる。

「しかし、それを手順として明示するか否かはユーザーにとっては大違いなのである。」

 優れたユーザビリティとその伝道こそがMTSの本質なのだと、さもこれがこの論説で言いたいことだといわんばかりにこれまた表面上持ち上 げるのであるが、最後にきつい一撃を加えている。

「学術的にはたいしたことがないと思われるような、ちょっとしたプラスアルファが、手法の使い勝手を著しく高める。私はこの典型的な例を MTSに見出したのである。」

  ”学術的にはたいしたことがない”である。これはかなり嫌味である。ここが本心の部分で一番言いたかった部分に見えて仕方がない。MTシステムの真髄は当然ユーザビリティーというところにあるのではなくて(ましてやカリスマ性や伝道でもなく)、品質工学会誌のほうの論説に記載のあるとおりである。

 宮川教授の著書(「品質を獲得する技術」など:名著である)を見る限り、QEをあれほど深く理解され、また賛 同していらしゃるのに、品質管理向けの論説となるとそちらにウケを狙ってか、QEに対して少し意地が悪いな、という(あくまでの下名が感じた)印象である。

 とはいえ、多変量管理図に興味を持ち、を調べていくうちに「インテリジェンス管理図活用のすすめ」、はたまた”この本を買った人はこん な本も買っています”と「グラフィカルモデリング」(宮川教授の著書)などの本に遭遇してしまい、いずれも買う決心をする羽目になった。 これこそ、宮川教授の術中ではないか。宮川教授こそ戦略家である。
(もちろん新しい知識への出会いに感謝しているのである)

2007/02/18

村上陽一郎「近代科学を超えて」とQE誕生予言?

村上陽一郎「近代科学を超えて」を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/近代科学を超えて-村上-陽一郎/dp/4061587641/sr=8-1/qid=1171799999/ref=pd_bbs_sr_1/249-0825545-2324336?ie=UTF8&s=books
「トーマス・クーンのパラダイム論の成果の上に立って、(中略)科学の進むべき新しい道を開いた」とある(裏表紙紹介より)。1986初版の文庫版であるが、原文はすでに1974年にあったらしい。30年以上前の書ということになるが、今読んでも全く古さを感じないし、むしろ今だからこそ読む価値が再認識される科学論書である。

 本BlogはQEのものであるので、興味を引いた部分を引用して簡単にQEとの関係について何がしかのコメントを加えてみる。(『 』は本文からの引用)

 『要は「人類のために」という科学の目的を、全体的現象の把握のなかに生かすための方法論を知ることなのであって、・・・(中略)・・・科学的であることと、分析的であることを等置と考えるドグマから脱却し、科学に対して、より柔軟な論理構造の枠組みを許すことにある。』(p.116)

 QEでは最初から社会的損失の最小化、人類の自由の総和の拡大を言っており、そのための方法論を具体的に提示している。執筆当時、著者は上記を打破できるのは、さしあたって「システム論」であるが、成果はまだこれからだ、としている。

 『システムの方法論を、上位概念もしくは上位法則によって下位概念を説明する、と定義してみてはどうだろうか。(中略)あるいは、あえて言えば総合的思考(分析的思考に対する対語※下名注)に当たると思われる。そうした思考を取るとすれば、当然、目的論的説明、機能的説明が、その思考過程のなかであるところを得るはずである。』(p.130)

 前後の文脈がないと多少分かりにくいかもしれないが、「目的論的説明、機能的説明」とあるように、分析論的な思考の対立軸として、目的的に、機能的に対象を説明するということである。QEの目的機能の定義および、その機能を達成するための帰納的思考方法がまさにそれに当たっており、従来の科学的思考(なぜそうなるのか、どう振舞っているのかをより下位の概念の分析で説明しようとする)に変わる軸を、Dr.タグチと同時期(30数年前といえばそのころであろう)に見据えており興味深い。

 『われわれは、医学がもう一度「生きる」ことの間に受ける「苦しみ」の除去という根本的前提に立ち戻ることを求めるのが、(中略)高分子的、細胞的なレヴェルでの異常、正常の分析にとどまらず、(中略)一個の人間の「苦しみ」をより大きなシステムとしての社会、民族、人類という観点から把握する方法論を確立することを望むものである』(p.131)

 高分子的、細胞的なレヴェルでの異常、正常の分析を「下位概念の分析での説明」だとすれば、一方では新しい枠組みとして(著者がシステム論的という)人類レベルでの損失の減少や自由の拡大を念頭において、ということであろう。なにも医学に限った話ではなく、あらゆる製品は原理やノイズの科学的分析だけでなく、機能や目的、とりわけ品質の定義である「出荷後、製品が社会に与える損失」を考える必要があると考えれば、根は同じであると思えてならない。QEではこの考え方に基づいてコストを工学に取り込んだところが、パラダイムシフトなのだといってよいだろう。

 これに対して、予測される反論に対しても著者は用意周到に以下のように述べている。

『そうした方法は、分析的方法に比較して、正確さにおいて欠けることは、当然予測されるところである。しかし、現象はときにむしろ曖昧なものである。(中略)曖昧さを曖昧さとして正当に評価できる方法は、科学のなかで決して否定されるべきものではない。(中略)われわれの科学のなかでも一種お袋小路に追い詰められていることはたしかであって、それを建設的に切り拓いて行く為の提案は、否定されるべきではないだろう。』(p.131-132)

 「曖昧さを曖昧さとして正当に評価できる方法」・・・これがSN比でなくていったい何であろうか。多次元空間のわけの分からない振る舞いを、(多少の情報損失は覚悟の上で)目的的に、すなわち理想機能の充足の程度として定量評価できるほぼ唯一といってよい尺度である。(ついでに言えば、その尺度があるだけでもありがたいが、評価尺度の加法性にまで気を配り、加法性を成立させるためのデータの取り方まで具体的に言及している学問は、QEは唯一無二である)
 また、前記後半の文章は、「数学的に証明できないSN比など信用できない」などの心無い批判を受けているQE推進者諸氏には心強いメッセージであろう。分かる人には分かるのである。

 最終節の「新しいパラダイムを求めて」のくだりは文字通り、圧巻である。ぜひ本書を手にとって前文をごらん頂きたい。一部だけであるが以下紹介する。

『近代科学の表看板では(中略)、三つ以上の要素の間のそれ(因果的関係※下名注)を同時に取り扱う手段を持たない(中略)・・・「共時的、同時的」な秩序に注目すべきである。(中略)われわれはそうした種類の秩序を正確に表現できるような数学的な道具をまだ手にいれていない。』(p.213)

 著者はこのような「共時的、同時的」な形態として、図形や和音などを例示しており、その形態のことを「パターン(独語ではゲシュタルトに対応)」と言っている。このような同時に起こるような自称の総合評価の数学的道具が必要であるが、今は(1974年当時)ないと言っているのである。このBlogの読者ならピンとくるであろうが、これに対する解はMT法が多くの部分を提示しつつあるのではないだろうか。

 『地球規模での自然制御の対象は、(中略)国家、民族、文化圏などの一切を包含した文字通り相対としての「自然」である。ここに要求される「文化」こそ、ある意味で自然をも包み込み「文化」-これまでの「文化」が「自然」内的存在であったのに反して-言い換えれば「超文化」とでも言うべきものであろう。(中略)政治・思想・倫理など人間に関するあらゆる側面を、一つの普遍的合意へと導いていくような種類のものでなければならない。そのような「技術」を手に入れることは・・・(後略)』 (p.222-223)

 本書の結論的な部分で、超文化へ導くものは、思想や倫理を普遍的合意に導くような種類の「技術」である、という言葉を使っている。2007年現在でのつたない下名の後知恵にすぎないが、この言葉が当時におけるQEの誕生予言に聞こえてならないのである。

 同筆者の「新しい科学論」(ブルーバックス)
http://www.amazon.co.jp/新しい科学論―事実は理論をたおせるか-村上-陽一郎/dp/406117973X/sr=1-1/qid=1171800062/ref=sr_1_1/249-0825545-2324336?ie=UTF8&s=books
も合わせて読んでいただければ、科学史や科学論に興味をもっていただけるものと思い、ご紹介したしだいである。

2007/02/05

損失関数の難しさと世代間闘争

 許容差設計を行うにせよ、オンライン品質工学を行うにせよ、拠り所となるのはそれらの計算方法や数理ではなく、まず損失関数の概念が受け入れられるかどうかであろう。損失関数の概念と言ったが、その計算方法のことではない。損失関数が導かれるまでの考え方、もっといえば社会に与える損失という考え方、哲学である。
 ではなぜ、損失関数があまり活用されないのであろうか。まず、機能限界Δ0(LD50)はともかく、A0の値が不明であることからあまり使用されない、使用しにくいという論があるが、それは誤解であると思う。上記のように、確かな精度でその値を決めるのは確かに難しいが、A0の値の精度が倍半分違っても、オンラインQEの計算による許容差や診断間隔はそれほど変わらないのである(まるめの範囲内であることが多い)。
 もう1つは、A0として社会の損失をすべて見込むのは過剰であるという考えによって、損失関数が使われにくい場合である。売価が数100円の安い部品が人命に関わることがあると、安全率は膨大になり、計画コストで設計できなくなる。これについては、ひとまず、安全設計(製品が壊れても人命や重要な財産は守られる仕組み)を併用することを勧めているので、損失関数を用いない直接的な問題ではないと考える。

 ここからが本論であるが、誤解を恐れずに言えば(いや、誰もが薄々気が付いているので地雷を踏むこと承知で言えば)、損失関数が経営者に使われない本当の理由は以下のようであると考える。
 企業の内部から損失関数を見た場合には、企業内の検査によってNGとなった場合の損失Aは、現在発生する損失である。すなわち、工程内の廃却コスト、ロスコストとなって、「現在」の企業(経営者、株主)にとってダメージとなり直撃する。
 なので善意には、政治的に妥当な理由(過剰品質やVA/VEという言葉が使用される)によって、あるいは悪意には故意的に、できるだけ許容差はゆるくして、工程内でNGとなるロスコスト(賞味期限切れのケーキや、電車の到着時刻の遅れ等ですね)は減らしたいと考えるのである(これには異論があろうが、程度問題である。損失関数の立場から見れば善意であっても大方A0は過小に見積もられている)。
 一方、機能限界外損失A0は出荷後将来にわたって発生する社会的な損失である。ここでの論点は「社会的損失」のほうではなく、「将来」のほうである。A0は将来の企業(経営者、株主)にとっての損失であるから、現在の企業(経営者、株主)にとっては直接の損失とはならない(普通は長くても数年で経営者は変わってしまう。ここでも異論があるだろうがこれも程度問題でると考える)。
 ここに損失関数の理念の落とし穴がある。つまり、現在の1円と将来の1円を同じものとして(これは金利や貨幣価値の意味もあるが、もっと広くだれにとって得する1円かという意味で)バランスを考え、許容差Δを決めるという操作に、現在の経営者は魅力を感じないのではないか(と、訊いてYesという経営者はそうはいないだろうが。経営者は品質第一、お客様第一を謳っているのだから、すばらしい、あるいは当たり前の理念だというであろう)。
 現在のB/S、P/L、キャッシュフローでシビアに評価される経営者にとっては現在の1円は将来の1円よりずっと重いのである。明日の金策に奔走する経営者に3年後のクレームの話を説いても仕方がない、というのは大げさな表現ではあるまい。経営者がそうであるから、中間管理職や技術担当への評価もしかりで、未然防止に対しては評価が低い。その点では現場から見ると、損失関数の考え方はナイーブに見えてもしかたがない。
 社会的に見ればこのように考える会社はつぶれたほうが世の中のためなのかもしれないが(ドラッカーもそう言っていたが)、当事者や従業員、その家族はそうは考えられまい。大方は自分の生活や立場を守ることに汲々としているのである。
 経営者が長い時間軸を含めた社会損失の最小化を行わないと損失関数による意思決定は不可能なのである(これは究極の社会主義であろう、従って自由経済、資本主義とは短期では相反する)。しかしもう少し現実的な方法として、転属・引退した経営者も関わった製品に対しては将来の損失に対する責任をかぶるくらいの対応があってもよいのかもしれない。
 これらの議論は国の財政問題、環境問題、エネルギー問題などの先送りすべて当てはまる。また、戦争の火種はすべて局所最適からくる問題であろう。政府(=これは国民の代表であり、主権であるということになっている)が将来にわたっての損失まで含めた意思決定ができるくらいなら、現在のような状況にはなっていまい。
 損失関数是非の問題は、世代間闘争の問題でもある。筆者はタグチ哲学はすばらしいと思う一人であるが、局所最適は不完全な人間の性なのではないだろうか。これは人類の歴史が物語っている。人間は何千年でどれくらい進歩したといえるだろうか。

株式会社ジェダイト(JADEITE:JApan Data Engineering InstituTE)

2007/01/12

音の基本機能による開発と、本年初の散財?

 年末のニュース情報番組で、もとONKYOで現在タイムドメイン社社長の由井啓之氏と、同社が発売している、新理論にもスピーカーが紹介されていた。筆者もオーディオには少なからず興味がある(といっても、素人でマニアというほどでもない)ので、興味深く見た。吉井社長自らが開発した、このスピーカーは、以下の考え方で成り立っている(技術説明書http://www.timedomain.co.jp/tech/theory/td_theoryA4.pdfより抜粋)。

「音楽の感動を伝えるには、またアーティスト(音楽家)の心まで伝えるには何が必要でしょうか。それには何も加えず、欠落させずに、音源からの音を100%引き出し、ありのままに伝えることが必要であると考えました。音楽家が選んだ楽器の音色、長年努力して得た演奏。これらの全てを再生しなければならないと考えました」

 この全くアタリマエの機能を、これまでの音響技術者が考えなかったわけがあるまい。しかし音響技術(に限らないがいわゆる科学技術)と言うものは、技術が高度化するにつれて、物事をさらに精密に分析・解析し、システムを複雑かつ膨大にしてゆく過程で、その本来の目的を忘れてしまうものである。最後に残るのは歪み率などの技術スペックの羅列と、その数値の優位性を示すカタログスペックである。同書によれば、

「測定器を使って解析しても正弦波成分に分析できるので、音を正弦波成分の集まりと考えてしまいますが、正弦波の集まりとして表せると言うことと、正弦波の集まりでできていると言うことは違います。」

と音を周波数成分に分けて解析・改善することを否定されており、また、

「電気音響再生の世界(歪み率など※筆者注)では100 倍も違うのに、(音のよさという※筆者注)結果に差がほとんど現れない、と言うパラメーターを頼りに長年研究開発を進めてきた」

と、間違った技術開発の方向性(技術スペック、品質特性での開発)に警鐘を鳴らしておられる。
(同書に歪み率と音のよさの相関のグラフが載っているが、まったく関係ないことが示されており、興味深い)

 その結果、現在の音響システムは、
「過剰に音域を分割され、加工された音。そのためにますます膨れ上がるシステム。システムとシステムをつなぐ、無数のケーブルとコネクター。迫力ある音を求め、巨大化し、グロテスクなほど飾りつけられ、そうして音は、どんどん壊されていく」
と述べられている(タイムドメイン社HPより)

 由井氏は「音源からの音を100%引き出し、ありのままに伝えること」というアタリマエの「音の基本機能」に忠実に技術開発を進めた結果、最高の(オーディオマニアでもあるビルゲイツに「自分の所有する50万ドル(当時7000万円)のオーディオと交換したい」とまで言わしめた)スピーカを完成させたのである。

 #こう聞いては、一度このスピーカーの音を聴いて見なければ気がすまないというものであろう。
 #正月休みに神戸の東急ハンズに展示されているシリーズ最高機種Yoshii9の音を聴きにいった。
 #ここでは個人的な感想を長々と述べるつもりはないが、巷の5.1chサランウンドシステムなど
 #という、作り物のわざとらしい臨場感にだまされてはいけないということだ。
 #そして、このスピーカーに魅了され、今年初の散財をする予定であることは 付け加えておこう。

 筆者は音の専門家でもオーディオマニアでもないが、由井氏の技術開発の方向性が良い製品に結実したのは、やはり基本機能に忠実であったからであろうと思うのである。

自分が開発する機能(製品ではない)の目的は何か。これを問い続けるべきである。

2007/01/08

今年度の抱負に代えて

本年度改めてよく考えてみたいことがある。

 まず、「現場力を鍛える 『強い現場』をつくる7つの条件」(著 遠藤 功)から抜粋しよう。
「戦略と実行は車の両輪みたいなものであり、切り離して考えること自体がナンセンスである。(中略)たとえロジックが完璧であっても、実行されない、できない戦略はそもそも戦略などと呼ぶべき代物ではない」

 品質工学が技術戦略と言われて久しいが、それを現場レベルの実行に落としこめている企業は一部である。どのように品質工学を推進していくかが、いまや学会内でも最重要のテーマの1つとして議論され続けている。

 つまり、品質工学のロジックや哲学がいくら完璧なものであっても、実行に移さなければ、移せなければそれは戦略とよぶに値しないというのである。

 同書からもう1つ引用すれば、
「誇りをもって泥臭い仕事をやってきた現場においても、自らの持ち味を軽視し、資源分散につながる新たな戦略に対する納得性は生まれない」
とある。
 品質工学を導入しようとして、組織レベル、個人レベルで有言無言の抵抗にあったことがあるであろう。これは品質工学のロジックそのものに対するNoというよりは、その実効性において、セミナーや書籍からの借り物のの品質工学では、現場の持ち味(適社性ともいう)にそぐわなかったり、現場の腹に落ちていなかったり(納得性ともいう)するからである。

 品質工学を勉強・推進するものはえてしてツールや数理の部分、さらにすすんでタグチフィロソフィーの奥深さに感動して、それを他人に教えようとすることに目が行きがちである。品質工学を実行レベルに落とし込むにはどうすべきか。当社オリジナルの品質工学と何かを今一度問い直し、それを作り上げ、実行に移していく、ありふれたテーマであるが、これが筆者の今年の重要課題である。

追伸
冬休みに06年度に読んだ本(雑誌・マンガなどは除く)を集計した結果、54冊であった。年初の目標が週1冊換算で50冊であったので、忙しい中でよく目標が達成できたと思う。かなりジャンルが偏っているとは思うが、今後このBlogでも読んだ本の中から、参考になるものがあれば随時紹介したいと思う。
なお、07年度に新たに攻めたい読書テーマは複雑系、経済物理学、科学論、比較言語学などである。

あけましておめでとうございます。

新年明けましておめでとうございます。

本当にいろいろありましてなかなかかBLOGが更新できていない状況ですが、本年もよろしくお願いします。

孫子の兵法に「敵を知り己を知れば百戦危うべからず」という有名が言葉がありますが、これはDOEとQEの関係にも当てはまるように思います。
DOEのように己(内側直交表:設計者の条件)だけでなく、敵(外側直交表のノイズや信号)も考えることて良い設計ができ、「百戦危うべからず」となるのではないでしょうか。これをSN比というレーダで見るのがQEですね。

QEを知れば知るほどその奥の深さにおののくばかりで、これからも「己を知る」ためにさらに勉強していこうと思っています。
今年もよろしくお付き合いください。