2006/09/24

名前のない豚

最初に1つの簡単な心理問題に答えていただこう。
あなたは2匹の豚を飼っている。2匹とも3ヶ月前から飼い始た豚で色や大きさなどはほとんど同じだ。
ただ、1匹の豚には飼い始めてすぐに「ブーちゃん」と名前をつけたのであるが、もう1匹にはまだ名前がついていない。ある日、都合で食用にどちらか1匹を殺さなくてはならなくなった。あなたなら、名前をつけた豚と、つけなかった豚のどちらを選ぶだろうか。
あるアンケートでは、ほとんどの人が「名前をつけなかった豚」を選んだそうである。これは何を表しているだろうか。
このことは、親しみを感じないもの、いやもっと中立的には知らないものや見えないものに対しては悪意がなくとも結果的に冷酷であるということである。このことは、たとえば「世界の見る目が変わる50の事実」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794214049/sr=8-1/qid=1159109456/ref=sr_1_1/250-8920752-7542600?ie=UTF8&s=gateway
などを読めば、我々がいかに恵まれた生活を享受でき、また恐ろしく悲惨な生活を強いられている人々がいるという事実を、いかに我々が知らずに安穏と生きているか、ということからも容易に反省できよう。
私を含めた凡人がこのことをどうこうしようという話ではない。
このような話は、設計開発の現場にいる人間と、量産の現場である製造、さらにはお客さんの使用環境である市場、不良が起こったあとのアフターサービスや品質保証、・・・ひいては地球環境などとの関係と同じなのではないかと思う。設計開発の現場にいる人間も毎日残業を重ね自分に与えられた課題をこなし、自分の責務を果たすのに精一杯である。それでいて、なかなか製造に対する許容差の問題や、お客さんが本当に欲しいと思う機能性については残念ながら見切れていない部分があるのは事実である。「あとは製造や品証に任せればよい・・・」と。もっと言えば、知っていたとしても、「我関せず」と感じずにいることはできるのである。
品質工学の論調に「技術者は責任をとらない」「社会の損失の最小化をめざすべき」というものがあるが、果たしてそのようなべき論だけで事態が解決するのかどうか甚だ疑問である。
広がりそうで広がらない品質工学のパラダイム、この「見えていない」原因と、「見えていたとしても御しようのない現実」のなかで、あまねく企業人に原理的に品質工学の真髄を説いても、反発に会うだけなのではないだろうか。
品質工学を選択しない人はバカではない。少なくとも理解した上で確信犯的に選択しない人も多数なのだ。優秀な人の大多数は汎用技術ではなく自分の専門性においての業績に興味があるのだから。
後日、このあたりのギャップについても掘り下げたいと思う。