2006/07/02

因果性とSN比

 田口玄一博士は「SN比は数学では証明できない」としばしばおっしゃっている。品質工学を統計学だと思っている人には「そんなバカな。統計学で数理的に解けるのではないか」「それでは学問の体をなさないではないか」という疑問が起こるであろう。これは以下のように考えてみてはどうだろうか。

 一般に因果性の記述が科学であると言われるが、もともと「因果」というのは仏教の言葉であり、そこから転じて現在では「原因と結果の関係」を意味する言葉になっている。もともとの「因果」の意味は、「原因だけでは結果は生じないとし、間接的要因(縁)によって結果はもたらされるとする(因縁果)」のである(Wikipedia「因果」より)。すなわち、東洋思想における因果とは、回帰式(y=ax+by+c)のように単純に示される限定された、単純な関係ではなく、ほとんど無限の要因が絡み合って結果ができていると考えているのである。

 科学的思考では、現象をモデル化し、数式(関数)で表し、そのように記述されたものを重視する。田口博士の考え方は仏教と同じように、物事(特に人間の創造した人工物)のふるまいは決して限定された関数で表すことのできない複雑なものと捉えている。田口博士の提唱するSN比は、現象を関数ではなく、お客の立場でのSignalとNoiseへの分解と、その比による評価、という「量」で示した点に従来の考え方との差異がある(このことは、従来の分布で考える信頼性工学と、そんなものは実際には複雑すぎて記述できないよ、という立場の損失関数の関係と同じである)。

 日本人である田口博士と仏教の因果や縁起という東洋の思想との一致は偶然ではないだろう。ついでに言えば、仏教における「空」の発想からインドで「ゼロ(0)」の概念が生まれたのだと言う。インドに大統計学者マハラノビスが誕生し、現在では「マハラノビス・タグチ・システム」として「(回帰式的な因果関係ではなく)無限の要因が絡み合っている」と考えられるパターンの世界に対して1つの考えを形成しているのも、また歴史的必然なのかもしれない。

 少し話が大きくなってしまったが、我々は100年、いや1000年に一度の科学・技術的なパラダイムシフトの提言がされて、発展しつつあるこの現在に、今同時代に生き、またそれを勉強・活用・開発できる僥倖に恵まれている、ということは確かだろう。このようにいろんな考え方に出会えるから人生は楽しい。

科学の壁、あるいは井の中のカガク

大型連休ともなると何十万人が海外旅行に行く時代になって久しい。それでも比較的単一な民族・文化を持つ日本人にとって、初めてあるいは久しぶりに外国に行くと「ああ、自分は日本人なんだなあ」と気づくことができる。つまり、「外国」という世界があり、そしてそれを見聞きし、「日本」を相対化することで初めて日本がなんたるか、日本人とは何者なのかを知ることができる。

 我々は「科学」という非常に強固に社会(学問、経済、政治、マスコミ、義務教育・・・)に組み込まれた考え方(パラダイム)の中に生きている。科学的なモノの見方が幼いころから刷り込まれているので、その考え方の枠組みを相対化してモノを見ることが非常に困難になっている(そのような人はそのことを自覚することすら難しいのであろうが、科学がほかの考え方に対しての絶対的な優位性を持っているわけではないことの説明は類書に譲る)。なにしろ、科学以外の考え方を合理的に相対化して考えようとしても、やはり「科学的」に考えざるを得ないのである。つまり、普通は「科学」を相対化するための「外国」に当たる考え方がないと考えられている。

 品質工学の考え方はまさにこの科学的枠組みの「外国」を提示するパラダイムであろう。科学的なモノの見方を問題にすること自体が困難になっている現在、それを相対化して、場合によってはそれを批判する品質工学の見方が受け入れられるのは、上記の理由からまだまだ先なのかもしれない。その外側にほとんど考えをめぐらせることができない内側がパラダイムと言われるものなのであり、それを意識、自覚することは(特に「科学」の場合は)難しい作業である。このことは、「外国」を知らない人からすれば、科学を批判することは即「アヤシイ宗教」を意味すると考える人ということから容易に推測される。

 「外国」の存在を示しその有用性を訴えたからといって、「日本」(元のパラダイムである「科学」)が不要であるとか有効でないと言っているわけでないのであるが、なにしろ現状では「科学」に匹敵するほど、社会制度を挙げての投資と保護を受けている考え方は他にないし、またサラリーマンほど保身と同調の生き物はいないのだから、井の外の考え方を唱える者は「異端」「村八分」の扱いになっても仕方がないのかもしれない。しかし大勢は従来思考とはいえ、近年の品質工学の動きは拡大の一途を遂げているのは事実であるし、少しずつ時代は動き始めているのであろう。

 最後に、「外国」を語る上で気をつけるべき点としては、今以上に「日本」(つまり科学的なあらゆる手法や考え方)を知ることと、他にも「外国」があるかもしれないという点を忘れないことである。自分のいる場所が唯一の「外国」と考えた瞬間、それはすでに他に考えが及ばないことを意味するのだから。

(参考文献、石井励 メールマガジン「ポストモダンでいこう」)